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※某新店舗のページに、本記事から画像が無断使用されている疑いがあります。悲しいことです。

※文末に続きあり、としていましたが、2021年7月6日、事実上の閉店が決まったため、追記します。

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このブログや食べログ、他のSNSでのプロフィール等。ラーメンの画を使うなら「小倉東洋軒」の画を使っています。それは、私が2,3歳の時に初めてお店でラーメンを食べたのがコチラであり。それから半世紀を、とうに過ぎました。私のラーメンの基準であり、ラーメン=東洋軒。唯一無二の存在です。また、両親と大将ご夫婦が古い知人であり、いろんな話をさせてもらいました。この度、思うところあって、これまでブログで綴ってきた「小倉東洋軒」ネットで書けるギリギリ?いや、書き過ぎかもですが、私の知る範囲を思い出しつつ、最終版かつ総集編としてUPします。
(定番「ワンタンメン」880円)
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(2021年6月8日 結果として最終訪問となった1杯 タケノコ多め。海苔はサービスで+1)
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<創 業>
昭和37年、らしいのですが、いつか大将は「37年か38年頃」とアバウトに言ってました(笑)黄金町で開業し、ずっとココ。ですが、厳密に言えば・・・少し移動してます。
最初の店舗は今、駐車場と都市高速(建設時は「北九州道路」)になってるあたり。自動車専用道路建設による立ち退きで移転。前のお店は、今のような立派なスープ室はなかった・・・位は私も記憶があります。旧店舗は手狭で、仕込を別の場所(片野新町付近)でやっていた時代もある(私の父・談)とか。近くの「虎屋のパン」(創業・昭和26年)が47年に、同じ理由(道路建設)で今の場所に移転してるので、移転はその頃だったかなぁ。移転直後のピカピカの店内の様子を、いまでも憶えてます。ちなみに、その頃は、バイクで出前もやってました。正式名称は「有限会社 小倉東洋軒」。
(こちらは、麺なしの「ワンタン」770円 ラーメンと同じ価格)
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<修 行 先>
大将から直接聞いたのですが、実のお兄さんが経営されていたJR小倉駅近く(京町3-6-17)にあった「宝来軒」で修行(セントシティ=旧小倉そごう建設による立ち退きがあったのかどうか確かではありません。ただ、ゼンリンの古い住宅地図で確認すると、すぐ近くですが上記の場所に「宝来軒」が存在してました)。「宝来軒」は、その後、八幡東区春の町に移転し、2代目が頑張ってます。余談ですが「宝来軒」では20年くらい前?だったかな、小倉時代の電話番号入り(局番2桁)の丼を使ってましたね。
東洋軒の大将、修行前に入る前は、近くにあった「小倉中央会館」でボイラー関係の仕事をしていたらしいです(これは一時期、同じ会社に在籍していた誰かさん→わが母の証言です)。なるほど、スープ室で大将ご自慢の器具を見せていただいたことがありますが、前職で培ったであろう技術力で、火の扱いはお手のモノ。東洋軒のスープは、オリジナルの灯油バーナーでの、しっかりした火の管理(強火)と、1つ百万円?と言われる特注の羽釜を使い、ラーメンを改良・工夫された大将の努力の賜物と思ってます。その後、黄金町に「東洋軒」開業。最初の頃はいろいろと苦労されたようです。前職時代に一緒になった女将さんと、二人で盛り上げて、一代で人気店にまで育ててこられました。 
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<大 将(社長)>
確か86才になられたはず。無類のクルマ好き。というか、機械モノの操作全般が趣味のようです→別宅では自分でユンボ運転して整地したり・汗)。
お店が軌道に乗り、最初の乗用車を大将に売ったのは、誰かさん(→私)の父らしいのですが(大将によくその話を聞かされました・笑)かつては、クルマを買い換えるごとに、ラーメンの値段が上がっていたと言う、有名な話があります(爆笑)→複数の元従業員・わが父の証言あり。しかし、ホント、いつもメチャ、パワフルで元気でした。勢い余って従業員に、時には厳しい指導もしてたので、イチゲンさんには不評でしたね。でも、愛情のある叱りだとわかってる常連は、やってるわい、てなものでしたね。あとから叱られた側も含めて笑い話になるんです。先に触れたガスバーナーを改良したり、平笊を自作したり。屋根に上って老朽化した店舗の雨どいや雨漏り修理したり。近年、流石に麺上げができなくなり、それでも営業時間中は店舗に出てましたが、最近は営業時間中に姿を見ることがなくなりました。仕込みの指示はされてるようです。一度、大将に元気の源は何ですか?と聞いたことがあり、答えは、お客さんのおかげだと。気を抜かないように緊張感持って仕事しているのが、良いのかもと仰ってましたねぇ。
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<女 将 さん>
もう何年も、ほとんどお店には出なくて、平成後半あたりから厨房で見たのは1回くらい。昔は、奥さんが麺揚げ、大将がスープ作り中心って感じでされてましたね。白に赤ラインの割烹着は、大将と奥さんだけで、青の縦縞は従業員さんです(平成後半から夏場はTシャツ)。さて、現在ですが、大将が厨房に居る時は、お店のどこかに奥さんが居ることが多かったです。しかし、残念ながら奥さんはご病気されて以来、厨房業務から完全に引退され、昨年、天に召されました。かつてこちら出身の「ゑびす屋」(門司区・すでに閉店)の大将も証言してましたが、奥さんの作るラーメンが一番旨かった・・・と。人柄が出るような、とても優しい味わいでした。仕込みは同じでも、作り手でラーメンの味が変わるということを、学ばせてもらいました。あの元気な大将をやさしく支えてこられた女将さん。晩年は、大将がしっかり面倒を見ておられました。
(富士山に登ると言ったら、マウンテン仕様で出てきたタケノコ・笑)
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<紅いのは「タケノコ」>
ネットが一般的になったころの一時期、いろいろ書かれました。シナチク、メンマ・・・違います。いまや周知の事実ですが、ネット創世期の頃は多くの方が勘違いしてましたね。ましてや紅生姜ではありません。医者に診てもらいましょう(笑)テーブルやカウンターの上にあるのは、確かに紅生姜ですが・・・最初からラーメンに入っているのは、タケノコです。東洋軒のは、孟宗タケノコで、お店で仕込みしてます。そのタケノコ、合馬産との情報もありますが、考えても見てください。合馬産が通年手に入るわけもなく、合馬だけでなく、いろんな産地・輸入物もあるそうです。なお、大将の修行先「宝来軒」のラーメンにはタケノコは入っていなくて、紅の色も含めて、大将のオリジナルであり、こだわりの自慢の逸品です。仕込みはとても大変らしく、独立したお弟子さんが、ほとんどコレを出してないことからも頷けます(紅しょうがのように、タケノコの色がスープに滲み出たことがないのに気が付いた方も多いと思います)。あまりシャキシャキした感じもなく、ラーメンの邪魔をしない。そんな貴重なタケノコですが、頼めば気前よく「大盛」にしてもらえました(ネギも大盛対応アリ)。
 (メニュー表 必ず蛍光灯が写り込むので写真撮るのが難しい・笑)
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<メニュー>
ダントツ人気は「ワンタンメン」。私もこれが一番。実は若いころは、食べたことがなかったものです。ちゅるるんとしたワンタンの皮と、ラーメンにめちゃ合うのに主張しすぎない餡。この餡の肉感が勝ると餃子っぽくなるから、バランスも絶妙。いろんなワンタンメン食べてみたけど、ここのワンタンに勝るのに、いまだ出会ってない。そー言えば子どものころ、母はもっぱらワンタン麺か、ワンタン(麺なし)を食べていたなぁ。それがわかるトシになったのかな。若いころに、割とよく食べていたのはチャーシュー麺だった。ワンタンチャーシューは高すぎて手が出ないし、あまりゴテゴテしてもねぇ。ワンタン麺とワンタンの違いは、麺の有無の他、入るワンタンの数が倍くらい違って。純粋にワンタンを楽しむなら、麺なしあり、なんだけど、麺が入ることを計算してのスープにタレなので、ちょいと塩辛さが増す。なので、ワンタン麺が1番。ハッキリ聞いたわけじゃないけど、チャーシューは塩ゆで。質の良いモモ肉チャーシューが、スープが濃い時代も、今も、ピッタリ合う。その塩ゆでした汁が、ラーメンの味付けに使われてるとか。
(ラーメン 770円)
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<トンコツ100%?>
比率は諸説あるし企業秘密なんでしょうが、わかる方にはわかるでしょうが、決して少なくない量の鶏ガラが入ってます。という話を、かねてから噂(テレビでも見たけど・笑)として聞いていたのですが、一度、スープ室を覗かせてもらってシッカリ鶏ガラを見たので、間違いないです(笑)スッキリ感は、北九州のイニシエ系ラーメンの定番、鶏ガラ入りだからこそかと。なお、その日のスープの出来によって調整の為、さらに鶏がらスープを使っているらしいです。久留米ラーメンを標榜してるので、豚骨のイメージが強いとは思いますが、それは、地元に合わせてます。そういえば、昔に比べて薄くなったというお嘆きをよく耳にします。確かに幼少のころ、スープに油の膜が張るぐらい濃厚であったのは事実ですが、大将の加齢とともに、穏やかな味わいへと変わって行きました。都合よく、私も加齢により、丁度良い濃さのままで、だから長く通えました。このようなスープですが、驚くほど獣臭がなく、雑味もなく、しかしコクはしっかり感じるんです。そして鼻に抜ける、東洋軒ラーメン特有の良い香りが食べ終わるまで続く。臭みを出さないことも技術。素人にはわかりませんが、下準備とか手間暇かけているんじゃないかな、と。濃くて匂うのこそがトンコツ、って方とは意見が合わないかなw
そういえば、お店は古くても、店内や釜に至るまでキッチリ掃除されていて、半世紀なるのに奇麗でしたね。雨漏りするって激怒したSNS書き込み見かけしたが、見るとこが違うな。ま、これも人それぞれですがね・・・
(コロナ禍前の店内&大将が厨房に居た時代の逆アングル)
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<仕入れ先>
肉や骨は、八幡東区荒生田の「山田屋」。朝早くに配達車を見かけてましたw 麺は小倉北区の安部製麺と聞いてます。麺と言えば、二十数年位前は「カタメン」なんてオーダーすると大将が忙しいから、できないって断っていたんですが(そもそも、北九州のイニシエ系ラーメンにカタメンの文化は無かった)、時代の流れで応じるようになってます。
(以下、独り言)
そう、長浜ラーメンが有名になるにつれ、長浜=福岡のラーメンみたいに、北九州でもだんだん増えてきて。私は古い人間なので、北九州では聞かれない限り、カタ麺オーダーすることはないし、イニシエ系でカタメンって、個人的に合わないと思う。デフォが一番。なんでもかんでもカタメンってどうなの?と。ましては初めてのラーメン店で、と。大阪お好み焼みたいにマヨネーズかける文化がなかった、広島お好み焼が、時代と共にマヨネーズを置くようになったのと同じ?え?違う?(汗)
(かな~り前に、突然、大将からいただいたTシャツ。今、年中スタッフが着てます)
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<後継者>
一時期後継者と見込んでいた親戚とお弟子さんが、店に居たけれど。お弟子さんは辞めて、門司に自分の店を開店(前出の「ゑびす屋」・閉店)。一方、残った親戚の方は、身体を壊してしまって、やはり辞めることになり。その後も、従業員へという話があったものの、立ち消え。ごく最近も、若手従業員さんが、しっかりお店を切り盛りしていたので(スープ以外)、大将が完全引退を決め、お店を引き継ぐ話になっていたらしいのですが・・・この先は私の想像ですが、結局は、ここに至るまで引継ぎができなかったこと、苦労して女将さんと頑張って店を繁盛店にしたこと、その女将さんを先に亡くしたこと。その思いがあって、自分一代で・・・とも考えてたのかもしれませんね。
ちなみに、大将は、お弟子さんが卒業後、どうしているかということは、かなり突っ込まないと教えてくれません。ただ、何人か巣立って行って、お店は出したものの、なかなか軌道に乗らないようですねぇ。真鶴の「宝龍」は健在ですが・・・(以下略)
一時期、直方にあったソックリな東洋軒。支店ではなく、前にお店に居た人で、まったく知らないわけではないが、直接の関係はなかったようです。黒崎に、かつてあったらしい東洋軒は、親戚らしくて、こちらはシッカリ協力したらしいのですが、すぐに閉店してしまったようです(汗)
なお、息子さんが厨房に居るような情報をネットに書いてる人もいたけれど、息子さんは全く別の、仕事をされて、かなり成功された方、なんですけどねぇ・・・よくお孫さんの話と共に雑談で聞かされてました(笑)
(ダイエット意識してからあまり食べてない、おにぎり。おにぎりも旨かった)
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<スタッフ>
メガネの男性は店長。昼間中心の勤務で仕事帰りに寄ることが多かった私はあまり馴染みがなかったかな。金髪若手のお兄さんは、チャラいことは全くなく仕込みとか夜時間帯のお店の切り盛り片付け、キッチリ仕事されてました。叱られじいちゃんこと、ヒデさん。ここで一番勤務が長い(はず)従業員さんでした。飄々として、どんだけ怒られても暖簾に腕押しw大将との「カミナリ漫才」は、愛情のあるカミナリだったからこそ、ヒデさんも喜んで仕事されてましたね。笑いにつながるんです。従業員の一部からは、やはりかなり叱られて、しかし、ひいきめ目に見ても愛のない叱りで、結構、それが雰囲気・評判を悪くしていたのかもしれませんね。ヒデさん、身体悪くしても、なお、働く気満々だったようですが、さすがのご高齢。心配した大将スタッフ一同から、勧められて、円満に退社となりました。
ヒデさんに代わって入店した女性。実は以前も働いていたんだけど、一度辞めて、なんと、ボクシング日本一になって、戻ってきました。東洋軒の長年の課題は従業員不足。ひとりが事情で欠けると、臨時休業になるという・・・元気のいい女性が加入して一安心?
あ、あと、人手不足の時は見かねて偶に店を手伝ってる年配女性。彼女は「おにぎり作り専門」の従業員さんだそうです。すげー。
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さて、この話。実は続きがありますが、今(本日は)は事情により書けません。
まだUPしたい写真もどこかにあるし、おそらく、数日後、書き足すと思いますので、よければ見てやってください。
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(追記)
色々綴ってきましたが、このように歴史が長くなると、さすがに店舗自体もあちこち痛んできて、雨漏りしたりと、維持は中々大変だったようです。例えば、羽釜も痛み、そろそろ取り替えないといけないが特注品なので時間がかかる、火力周りも大将オリジナルだけに高齢になりメンテナンスの問題。遅すぎた後継者引継。従業員さんに引き継ぐ話が決まっていて。実は私もそう願っていたところでした。実質的に今の東洋軒を切り盛りしていた彼なら、これからも東洋軒の暖簾を守ってくれるだろうと。大将自身の引退は、ずっと支えだった女将さんに先立たれ、流石の大将も腹を括ったのではないだろうか。しかし、急転直下(これが改装や閉店というウワサが大きくなった、ドタバタの理由やもしれません)。大将は自分一代で店をたたむことを突然、決断された。
そこには、いろんな想いがあったと・・・それは想像に難くない。
6月初めに閉店が決定され、中旬に営業休止。そして昨日(2021年7月6日)付で従業員は全員、退職となり。コロナの影響とか、スタッフの総入替えという単純な話ではないし、現場に立てない高齢の店主がイチから従業員を育てることは誰の目から見ても困難であり、昨日をもって事実上の閉店が決まったことになります。長い歴史を持つ小倉の名店が、告知もせず、突然、こんな形で幕を下ろすとは悲しい限りです。この情報は昨日付で、退職となった従業員の方から、約1週間前に教えてもらいました。従業員がだれも居ない今、高齢の大将が告知や掲出をするかはわかりません(難しいかもしれませんね)。従業員が退職とされた日付も過ぎたので、東洋軒を長年愛してきた一人として、この末尾でお知らせします。
ずっと走って来られた、大将。ゆっくりされてください。もし、街中で見かけた時は、ゆっくり話を聞かせてください。いままで、ありがとうございました。スタッフの皆さんの今後を、期待しています。
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(おまけ)都市高速建設による移転前に店舗があった場所
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